「ブランドの中のブランド」エルメス。なぜ、エルメスは今日、トップブランドとしてのステータスを確立したか。
三部作となる第一回は、19世紀~第二次世界大戦までのエルメスの歩みを追い、歴史に息づくフィロソフィーと変革を見ていきましょう。
こんにちは、しょる(@SHOLLWORKS)です。今回は、世界的トップブランドのエルメス(HERMES)について。
おそらく、ファッションに興味のない方でも、「エルメス」というブランド名は聞いたことがあると思います。一方、服やブランドがに興味を持ち始めた方は「なんとなく凄そう」「高そう」といったイメージをお持ちではないでしょうか。
仮に、個人の好みを抜きにして「ブランド力」で価値を推し量るのであれば、エルメスはこの世のあらゆるファッションブランドの中でも最高のステータスを誇ります。「ブランドの中のブランド」と形容される存在で、「エルメス」と「その他」で区分されるといっても過言ではありません。
なぜ、エルメスは「最高」なのか。それは、190年弱の長い歴史の中で、伝統を保持しつつも確かに変化をしてきた上で「名作」を生み出してきたから。
三部作の第一回となる今回は、エルメスの創業~第二次世界大戦前までの歴史を追うと共に、時代を経ることで生まれていった、エルメスの歩みと価値観についても触れていきたいと思います。
それでは、本日もよろしくお願いします。
エルメスがブランドに込めた「姿勢」は、190年後も連なるフィロソフィー
創業期のエルメス|馬へのやさしさといった“品質本位”が評判を呼んだ
1837年、当時36歳のティエリー・エルメスによって創業されたエルメスは、馬具工房として始まりました。19世紀の中ごろは車はまだ存在せず、上流階級の人々は「馬車」に乗って移動をしていた時代。「昼は2人乗りの二輪馬車、夜は箱型の四輪馬車」を所有することが、上流階級のステータスだったそうです。
石畳の悪路が多いパリでは、衣服を汚さない馬車を利用することが上流階級のライフスタイルとなっていました。富裕層は馬車にこだわり、馬にこだわり、そして良い馬具を求めることもこだわりました。
ティエリーの工房が製作した馬具の知名度が上がった理由は、偏に高い品質でした。職人の手によって丁寧に作りこまれた馬具は、特に「馬が傷つきにくく、暴れないことから乗り手も安心できる」という点で好評だったそうです。
そして、エルメスは「馬に優しい」「優れた耐久性」といった顧客の実用的なニーズを捉えることと同時に、控えめながら洗練されたデザイン性にも秀でていたと言われています。
フランス最後の皇帝であったナポレオン三世にも愛用され、いわば「セレブ御用達ブランド」の先駆けであったエルメス。日本が初参加した1867年のパリ万国博覧会では、女性用の鞍(くら)を出展し銀賞(ルイ・ヴィトンは銅賞)、そして、1878年にも行われたパリ万国博覧会では、最高賞であるグラン・プリを受賞。
創業者ティエリー・エルメスは、惜しむらく1878年のパリ万博開催の3か月前にその生涯を閉じますが、エルメスの栄誉と繁栄は二代目、シャルル=エミール・エルメスと職人たちに引き継がれていきます。
エルメスのブランドロゴが示す意味
こちらは(ある程度)有名な話ですが、エルメスのブランドロゴには、馬車と従者が描かれています。そして、馬車には人が座っていません。これは、描かれている馬車にはお客様が座ること、エルメスは最高の商品(馬具)を提供こそすれ、あくまでツールであるということを意味しています。
換言するならば、身に付けた顧客の「美しい人生への寄与」こそエルメスの使命であり、そのためにエルメスの商品は最高でなくてはならないということ。
このフィロソフィーを190年弱という長期間継続し、時代ごとに自社の価値観や強みを明確化した上で顧客のニーズに応えてきたからこそ、エルメスは「最高のブランド」となりました。
現在の本店の完成とオーダーメイド馬具の製作
1880年頃と現在のエルメス本店
二代目、シャルル=エミール・エルメスは、亡き父をはじめとする家族、そして工房の職人と勝ち得た万国博覧会での栄誉を足掛かりに事業を拡大しました。アトリエをフォーブル・サントノーレ通りの24番地に移設し、同時に、工房に併設した店舗を持つようになります。
この地に“メゾン”を設立したエルメスは、やがて、その位置から「右岸のエルメス」(パリを通るセーヌ河を挟んで、貴族的で保守的な傾向にある地域。やや革新的な「左岸のアルニス」と対照的に位置付けられる)と呼ばれるようになりました。
シャルルはそこで、更なる顧客への付加価値を提供すべくオーダーメイドの鞍(くら)を製作するようになります。それまでも(万博に出展した通り)エルメスの工房でも鞍作りは行われていたようですが、本格的に参入したのはこの時代。鞍職人は、馬具製作の中でも花形といえるポジションでした。
職人が乗り手の要望を聞くことで、満足した顧客がリピートすると同時に「口コミ」が広がる。そして、新規ユーザーに対しても満足度を実感してもらうことで、同じサイクルが生まれる。
拡散➡口コミ➡評判の獲得➡拡散➡・・・という、現代と何ら変わらないブランディングのサイクルが、19世紀末のエルメスにおいても発生していました。強いて言えば、貴族階級というクローズドコミュニティ(最も、当時はオープンコミュニティと思われていた)であることや、徹底した品質本位に根ざしていた点が、現在の多くのブランドとの相違点ではないでしょうか。
カスタムで馬具を作ることは、工房の職人に対して高い技術力が要求されます。しかし、それ以上の高い顧客満足度は唯一無二のファンを生み出し、ヨーロッパ全土の上流階級層に知れ渡りました。
体験価値と「時代の変化への適応」が掛け合わさり、「最高のブランド」に
三代目エミールが「時代を捉え」、馬具から派生したレザーアイテムを生み出した
19世紀末、エルメスは馬具以外の製品を製作するようになりました。シャルルの次男である三代目、エミール=モーリス・エルメスは、店先にレディース向けの手袋やハットピンなど、馬車に乗る人たちのライフスタイルを彩る商品を置き始めました。
エルメスは馬具および馬具製作の技術を軸に、「馬に乗る人が必要とするだろうアイテム」や「馬に乗る『クラス』の人の行動様式を基にした商品開発」を手掛けました。その結果、馬具を購入する男性客だけでなく、女性の心をも捉えるように「変化」する結果に。
また、エルメスは1890年頃、「オータクロア」を発表。馬の乗り手のサドルやブーツをしまうために作られた大型のオータクロアは、職人技の美しさから大変好評だったそうです。そして、現在も存在する「オータクロア」から着想を得た不朽の名作こそ、1984年に発売された「バーキン」です。
大戦時に目の当たりにしたファスナーが、“時代の転換期”のブレイクスルーとなった
1885年、ガソリンエンジン自動車が誕生しました。そして、20世紀になるとアメリカ、そしてヨーロッパの上流階級を中心に自動車が普及します(奇しくも「ルノー」創業者、ルイ・ルノーはエミールの友人だったそうです)。同時に、移動手段としての馬の役目に陰りが見え始めました。
「最高の馬具」を提供してきたエルメスにとって、20世紀の幕開けは「変革の必要性」に迫られた時代でした。エルメスは、馬具以外の製造および販売事業を拡大する方向に舵を切ります。
エミールは職人ではなかったものの、商売人として才覚を発揮していたようです。エルメスの強みである「上質な革」と「高度な技術力を持った職人」を活かし、いわゆる「ファッションブランド」として、レディースのバッグや財布などの皮革製品に本格参入しました。
1922年、エミールは家族や職人達の意見を押し切り、1891年にアメリカで発明されたファスナー(当時は「アメリカ式万能閉じ具」という名前でした)の特許を買い取ります。これは、第一次世界大戦(1914~1919年)時にフランス軍に徴兵され、カナダで革の買い付けを行っていた際、偶然見かけたことが切欠でした。
そのとき、エミールは戦線にて車、そして初期型の飛行機が使用されているのを目の当たりにして、「馬の時代」が終わることを痛感したようです。そして帰国後、カナダで出会ったファスナーを鞄や洋服に使用し、世界初のジッパーの付いたハンドバッグを発売します。
今では当然のようにバッグにファスナーが付いていますが、最初にファスナーをバッグに取り付けたブランドがエルメスです。これまで培ってきた強みと、新たなジャンルを融合することで時代のニーズに対して応える。クラシカルなイメージのあるエルメスですが、革新の連続が今日のブランドステータスを生んでいるといっても過言ではありません。
ファスナー式バッグ&ウェアが大ヒット、メンズ・レディースの顧客を取り込む
エミールが職人に作らせた、馬具製作のための高度な技術を落とし込んだ革製品は、完全に時代の流れを読んだものでした。総力戦となった第一次世界大戦は、兵役に就いた男性に代わって女性が労働者となった戦争でしたが、同時に上流階級の女性にも「実用性」「耐久性」といった要素を重視する価値観を与えました。
そのため、女性の服装が一気に簡素化したのもこの時代です。それまでの耐久性無視で製作された「贅沢な服飾」から、革で作られた何十年と使えるバッグや手袋(そして、所有欲まで満たしてくれるもの)というニーズの遷移に、エルメスの商品は完全に合致したものでした。
その他、ファスナーを付けたゴルフ用レザーウェアは、20世紀最大のファッションリーダーであるイギリスのウィンザー公によって広められます。また、シャネルの創業者、ココ・シャネルがエルメスの革小物を身に付けたことなども、ファッションとしてのエルメスの知名度を大きく向上させました。
栄華を誇った1920年代のエルメスと「レ・ザネ・フォル」
第一次世界大戦後~第二次世界大戦の遠因となる1929年の世界大恐慌が起こるまでの間を、「レ・ザネ・フォル(フランス語で「狂乱の時代」を意味する)」といいます。
この時代に現在のライフスタイルの基礎が確立され、芸術も「アール・デコ」が盛んになるなど「明るい時代」が続きました。エミールは美術・芸術作品の収集家でもありましたが、エルメスが大いに芸術性を吸収し、ファッション文化を進化させた作品を生んだのもこの時代です。
ここでは、先述のレザーバッグやウェア以外にエルメスがファッション界に貢献した事例を、幾つか挙げてみましょう。
懐中時計に革製のベルト・ストラップを採用
エルメスはスイスのジャガー・ルクルトなどの懐中時計のレザーバンドやストラップケースを製作しており、従来の鎖に代わる素材として注目を浴びました。時計分野においても、エルメスは革素材を使用することを推し進めたパイオニアでした。
実際には、20世紀初頭には「レザーバンドの腕時計」自体は存在しました。しかし、当時の(腕)時計は防塵性や耐衝撃性に難があったため、まだまだ懐中時計の需要が大きかったようです。(腕時計はロレックスが1926年に発表した「オイスター」が、防水性と防塵性を備えた世界初の腕時計として注目されたことで徐々に普及します)。
いずれにせよ、エルメスが中心的なブランドとなって、ファッションとしての時計に革製のバンドやケースを取り入れたことは間違いないようです。この事実を知ると、なぜエルメスが現代の時計のイノベーションである、アップルウォッチのレザーバンドを販売しているのかも納得できます。
スカートへのファスナーの取り付け|シャネルとの「協働」
今では当たり前に取り付けられている衣類のファスナーですが、100年前のスカートには存在しなかったディテールでした。特に、当時のスカートはホックで留めていましたが、厚地の布だと上手くホックを留めにくいという問題がありました。
そこで、欧州を席巻していたエルメスが特許を持っているファスナー「システム・エクレール」に注目したのが、ココ・シャネルでした。しかし、エルメスからファスナーを購入すれど、当時のシャネルのメゾンにいた縫い子では上手く取り付けられなかったようです。
結局、シャネルはエルメスにスカートのファスナー取り付けを依頼することとなりました。シャネルは新たな時代の女性のための活動的なルックを数多く生み出しましたが、その初期のスカートはエルメスが下支えしていました。
従業員による、アーティスティックなウィンドウディスプレイの発案
芸術的にも豊かな1920年代、エルメスの店舗にて手袋の販売係だったアニー・ボーメルが、店舗のショーウィンドウのディスプレイに工夫を凝らし、単なる“商品陳列”の域を超えた芸術的なブランド表現を試みました。
アニーのディスプレイは芸術に造詣の深いエミールを驚かせ、アニーをエルメスのディスプレイの責任者に抜擢。その後も道行く人々にエルメスへの憧れを抱かせる“作品”を作り続けることになります。
この“芸術的ディスプレイ”は結果として店頭に立ち寄る人を増やし、今日までエルメスの世界観とイメージを伝える手段に。今日、多くのブランドが“真似をする”ひとつのブランディング手法が確立した出来事でした。
「レ・ザネ・フォル」後の1937年、シルクスカーフ「カレ・エルメス」を発表
エミールの次女、ジャクリーヌと1928年に結婚した四代目、ロベール=デュマ・エルメスは、革製品とは離れたエルメスの“名作”に注力します。
世界恐慌を経て、ナチス・ドイツとの緊張が走る1937年。エルメスはブランドとして初のスカーフ、「カレ(フランス語で正方形を意味する)・エルメス」を発表しました。
「カレ・エルメス」第一号となったのは「オムニバス・ゲームと白い貴婦人」。当時流行っていたゲームを題材にしたのは、奇しくもエルメスの原点ともいえる馬車(オムニバスは「乗合馬車」を意味し、自動車にとって代わられた現在も「バス」の語源となっています)でした。ここにもまた、エルメスの原点を垣間見ることができます。
その②(WW2~20世紀末のエルメス)へ続く